日高のり子

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ひだか のりこ
日髙 のり子
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プロフィール
本名 永井 範子
(ながい のりこ)
愛称 ノン子
配偶者
出生地 日本の旗 日本東京都千代田区
血液型 AB
生没年月日  1962年5月31日
  - 月日(-歳)
所属 BIG MOUNT
活動
活動時期 1984年 -
デビュー作 ムジカ・ノヴァ(超時空騎団サザンクロス
声優 テンプレート カテゴリ

日髙 のり子(ひだか のりこ、1962年5月31日 - )は、日本の女優声優ラジオパーソナリティ東京都千代田区九段出身。血液型AB型。本名永井 範子(ながい のりこ)(旧姓:伊東)

主な役柄に『タッチ』の浅倉南、映画『となりのトトロ』の草壁サツキ、『らんま1/2』の天道あかね、『ピーターパンの冒険』のピーターパン、『炎の闘球児 ドッジ弾平』の一撃弾平など。

特色[編集]

愛称はノン子。やや高めの明るい声が特徴。実家は洋服店「テーラー伊東」。千代田区立富士見小学校、頌栄女子学院高校出身。短大中退。アイドルから声優に転向した。

芸名は本来異体字を用いて日髙のり子としているが、アイドル時代のごく初期を除いて「日高」と表記されることが多かった。だが、10年ほど前に字画の関係から声優の金丸淳一に勧められて、本来の異体字で表記するようになった。

来歴[編集]

子供の頃から子役として活動。高校時代にはいとうのりこ名義でアニメ『ふたごのモンチッチ』の主題歌を歌い、キャンペーンのお姉さんとして着ぐるみとともに全国を回ったこともある。

「初恋サンシャイン」でアイドルデビュー。1日だけ「あいようこ」(漢字不明)の芸名だったが、本名の「のりこ」は残したいということで現在の芸名に。香川の「仁尾太陽博」のキャンペーンガールを務める。NHK「レッツゴーヤング」において「サンデーズ」のメンバーになり、ある程度名は売れたものの、その後アイドルとしては失速して行き、苦労続きの日々を送る事になる(しかしこの時の数々の経験が、後々声優に転身した際の過酷な試練を乗り切る下地を作る事になった)。

1984年、22歳になり芸能界で未だ一皮剥けない状況に業を煮やした両親から半ば引退勧告を突き付けられた中、当時担当していたラジオ番組でリスナーからの「声に特徴があるので声優をやってみたら」という投稿に触発され、オーディションに挑戦、結果『超時空騎団サザンクロス』で声優デビューを果たした。1985年からは、1987年までフジテレビ系にて放映された、あだち充原作の『タッチ』でヒロイン・浅倉南役を担当し、声優としての知名度をあげる。

その後『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、『らんま1/2』、『となりのトトロ』等知名度の高い作品に多く出演。また、1989年の『ピーターパンの冒険』では、レギュラーキャラクターでは初となる少年役を担当した。この他にも年相応の役を増やすなど、役の幅を拡大させていった。

1991年山寺宏一関俊彦とともに芝居『@@ザ・スタースパングルド・ガール::』を公演。メルダックがこれに便乗しこのメンバーでユニットバナナフリッターズを結成、ラジオ番組・CD等で1995年頃まで活動した。

所属レコード会社はアイドル時代の当初ソニーレコードCBSソニーから、ポニーキャニオン、そしてメルダックと変遷したが、近年は歌手活動をしていない。

現在は特番等の単発のナレーションの仕事が多い。アニメ作品レギュラーは少なく、出演した作品での担当キャラの全編通しての登場頻度もバラつきが大きい。これは「家庭を優先させているため、敢えて(拘束の弱い)仕事を選んでいる」とのスタンスを取っている為である(声優業における師匠的存在の三ツ矢雄二とのインターネットラジオにて発言)。

所属事務所・マネージャー[編集]

子役時代には東京宝映に所属していたが、アイドルデビュー後は当初CBSソニー預かりの後、河野プロモーションへ。マネージャーは岡本が長く務めた後、大楽豊、寺岡理恵と変遷した。

1996年春頃に事務所が廃業、暫くフリーでの活動を行うが、81プロデュースのマネージャーを務める吉田理保子から誘いを受け、寺岡と共に移籍。長年在籍したが、2006年3月限りで81プロデュースを退社、夫の事務所(BIG MOUNT)の所属扱いで活動中。

人物像・エピソード[編集]

  • 明るい性格で知られ、島本和彦からは「便所の100W」と言われたこともある。
  • 明けっぴろげな性格で、飲み会で酔っぱらい、ジーパンで股を開いて眠り惚けたエピソードを「文化人」こと三ツ矢雄二に散々言いふらされたことがある。
  • アイドル出身声優の中でも際立った異色の経歴と苦労続きの日々を送っていたからか、ラジオ番組で見せた自らのキャラから「かなりの一筋縄では行かない性格」「声優界でも指折りの隠れた豪傑」と評するファンもいる。

アイドル時代の苦労話[編集]

  • アイドル時代初期には、空手着姿のグラビアを撮影したことがある。しかし、日高は「二度とやりたくない」と公言している。また「週刊ゴング」レポーターを務めていた経験もある。
  • 日高がアシスタントを担当したオールナイトニッポンのメインパーソナリティー・笑福亭鶴光に、後任アシスタントの坂上とし恵、ゲストとしてよく出演していた浜田朱里とともに「がげっぷちトリオ」と鶴光に命名されるほど、初期は苦労続きであった(鶴光の十八番である下ネタも苦手にしていた)。
  • アイドル時代のある日、温泉でのロケが入った日高が現地に着くと、そこには温泉に入浴しているクマがいた。実は、ロケの内容は「クマと一緒に温泉に入る」企画であった。恐る恐る入浴する日高だったが、突如、クマが日高の髪の毛に噛み付くアクシデントが発生。命からがら逃げ出した日高が、番組のディレクターに文句を言うと、ディレクターは「自分が入って大丈夫ならまたやろうか」と言って自らクマと一緒に入浴するも、ものの見事にクマに腕を噛まれる結果となったと言う(エッセイ本『のんこ』や『渋谷でチュッ!』ゲスト出演時等で語っている)。

『タッチ』での演技指導[編集]

前述の『超時空騎団サザンクロス』のオーディションと、当時レギュラーだったラジオ番組と時間が重なったため、当時の岡本マネージャーがラジオ持参でオーディション会場に駆け付け、その結果、声優デビューを果たした逸話がある。

その際、殆ど未経験同然で声優の世界に飛び込んだが故に、暫くはその演技力を酷評される時期が続いた。その当時からオーディションで先輩の島本須美に最終選考で敗れる事がしばしばで、その経験から島本に対して「いつも自分の前を行っていた」「敵わないと思った」などの発言を残している。

1985年に放映開始された『タッチ』では、オーディションを経てメインスタッフの『下手だけどこの子に賭けてみよう』と言う、育成目的も込めた意図でヒロイン・浅倉南役に抜擢される。そのアフレコ現場では、共演していた林家こぶ平と共に、上杉達也役の三ツ矢雄二を始めとする先輩声優や、藤山房伸音響監督に毎回厳しい演技指導を受けていたという。

しかし、この環境は日高の演技力を短期間のうちに向上させ、以後息の長い活動を見せることとなった。

これらから「現場で叩き上げられて成長した代表例」、「努力で這い上がった苦労人」と取り上げられることもあり、日高本人も当時の『タッチ』関係者に自著で感謝の念を語っている。

後には、山口勝平の新人時代の演技指導にも活かされ、今でも山口は日高に頭が上がらないと言う(山口の項を参照)。

少年・青年役[編集]

『ピーターパンの冒険』では、当初はヒロインのウェンディ役としてオファーを受けていた。しかし「少年役に挑戦したい」という考えから、日高本人がピーターパン役での出演を希望、変更になったという経緯がある。その動機は、当時の自身に付きまとっていた「浅倉南」のイメージを振り払うためだった、と後に語っているが、第1話のアフレコでは、力みすぎて声をつぶしてしまったという。しかし、結果的に今までのイメージを払拭し、また自身の声優としての評価も上がることとなった。

ピーターパンに続く2つ目の本格的な少年役『ふしぎの海のナディア』のジャンは、ピーターパンのはつらつな芝居と違い、抑える場面や日常的な会話の演技を求められ、「男の子の声になっているだろうか?」との不安を感じたという。また、発明家という設定から脚本のセリフに難しい漢字が多く、漢字が苦手な日高はその面でも苦労もあったと語っている(この点は自らのラジオ番組でも出てしまう事がしばしで、番組によってはリスナーから容赦ないツッコミを受ける事も珍しくなかった)。

更に劇場版では、17歳に成長した青年のジャンも演じているが、当時青年を演じている女性声優は野沢雅子しかいなかった為、やりがい・苦労共に大きかったという。ジャン役以降は少年役も増え、一時期は女性役以上の数をこなしていた。

るろうに剣心』では、青年の悪役(瀬田宗次郎)を演じている。また『DEATH NOTE』のニアは、今までの少年役よりもさらに低い声を出している。

出演作品[編集]

太字は主役・メインキャラ

テレビアニメ[編集]

OVA[編集]

劇場版アニメ[編集]

ゲーム[編集]

人形劇[編集]

ドラマCD[編集]

パチンコ・パチスロ[編集]

  • CR黄金ハンター ~ショコラとタルトの大冒険~(ショコラ)
  • ランブルローズ(日ノ本零子)

テレビナレーション[編集]

レギュラー出演分[編集]

本名(旧姓)でクレジットされている。
サンデーズメンバーとして出演。その当時にシングル「もう一度ブラックコーヒー」をリリース。
小学生が参加する皇居1周マラソンを放映する番組。コント赤信号の3人と共にレギュラー出演しており、子供達の中に混ざり皇居1周マラソンを走っていた。
参加者にインタビューするレポーターを務めていた。
同番組の最後の3ヶ月間のアシスタントを務めていた。

コーナー出演[編集]

ラジオ[編集]

ここでは代表的な番組を挙げる。

笑福亭鶴光のオールナイトニッポン
オールナイトニッポン
日石土曜おもしろラジオ
タッチ』で共演した三ツ矢雄二と共に出演。日本石油(現:新日本石油)一社提供。
生放送のような形を取っていたが、実際は録音で「はいぱぁナイト」と同じスタジオ、スタッフだった。
サタデーときめきステーション(1989年4月~1994年9月)
日高のり子のサタステブレイク(1994年10月~1995年9月)
同局の坂井和正アナと共に、毎週土曜日夕方に同局の松本市内の本社スタジオ(一般道路から放送の様子をガラス越しに見ることが出来る)から生放送(2時間番組であったが、放送時間は時期によって異なる)。
本人は毎週新宿駅から中央線特急あずさ号に乗って松本まで通い、新宿駅松本駅でのファンの見送りが常態化していた。毎週放送終了後、時間があれば本社ロビーにて放送を見に来たFANへのサービスとしてミニサイン会が行われていた。本人が仕事等で松本に行けなかった週は主に日高と交友のある人間がピンチヒッターとして出演していた。
番組自体はFM局らしく、リスナーからの音楽リクエストや坂井アナとのトーク、そしてリスナーへの電話コーナー等が主体であった(同時期に放送された『はいぱぁナイト』や『アニメスクランブル』等と比べると、局のカラーや放送時間帯、企画コンセプト等には差異が見られる)。
1995年9月一杯をもって本人の妊娠を機に終了。
ノン子とのび太のアニメスクランブル
長谷川のび太(本名:長谷川太)アナと共に出演。日高・文化放送のアニラジ双方にとって最も長寿番組になる。
詳しくはこの番組の項を参照。
Clair de Lune
  • NACK5 - 1992年4月~9月
関俊彦山寺宏一と組んでいたユニットバナナフリッターズの番組。ミニドラマ(後にCD化された)とトーク、音楽主体の構成。
アースコンシャス・ドリーム
JET STREAMのすぐ後に放送されていた5分番組。島根県がスポンサーとなっていた局もあった。
日高のり子のTokyo Wonder Jam うり!うり!うりほぅ!
  • KBS京都 - 1998年4月4日~2001年3月31日(全156回)
後述するアロマチックナイト最終回の混乱交じりの盛り上がりを見たナムコがスポンサーとして名乗りを上げ、半年ぶりに復活した番組。東京・二子玉川のナムコ・ワンダーエッグより毎週土曜夕方から生放送だった(同施設が2000年末をもって二子玉川地域再開発事業の為に閉園となった後は、スタジオ(詳細不明)からの生放送に)。
日高のり子のHAPPY@
  • KBS京都 - 2001年4月7日~2004年3月27日(全155回)
当初は文化放送が開設していたSORASTA(都庁上階の公開スタジオ)からの放送だったが、同スタジオ閉鎖後はスタジオ(詳細不明)からの放送に。普段は生だったが、正月等は録音だったと思われる。
浅倉南のオールナイトニッポン
  • ニッポン放送ほか - 2004年9月29日
オールナイトニッポン第一部枠で『タッチ』DVD-BOX発売記念として放送された一晩限りの特番。その当時、同BOXの宣伝で文化放送のあらゆる番組にゲスト出演していた。
NONKO'S CHEERFUL MIND “うらら”
  • KBS京都 - 2005年10月5日~
HAPPY@終了後、KBS京都に1年半ぶりの復帰。「癒し」が主なコンセプトの録音の15分番組。
(三ツ矢3+日高3)2=!?
毎月第1・第3火曜更新で、三ツ矢雄二と組む。
神南スタジオ公式サイト内・番組配信ページ
KBS京都はいぱぁナイトハイヤングKYOTO「アロマチックナイト」
  • KBS京都(1989年10月13日~1997年9月29日。全413回)
日高が初めて単独で持った長時間生ラジオ番組。
日高のり子のはいぱぁナイト金曜日
  • 1989年10月13日~1995年3月31日(全285回)
日高のり子のはいぱぁナイト月曜日
  • 1995年4月3日~1996年3月26日(全50回)
1995年春にKBS京都会社更生法の適用に至り、同局の深夜生番組体制の縮小が始まったことから、はい金枠終了と共に月曜へ異動。1995年初秋に番組内で懐妊を発表、翌年初冬に出産を控えて一時降板(その間は山寺宏一杉原徹沢田聖子等が代打を勤めた)。
日高のり子のアロマチックナイト(ハイヤングKYOTO月曜日)
  • 1996年4月1日~1997年9月29日(全78回)
『はいぱぁ』終了後に始まったハイヤングKYOTO (第二期)の月曜を引き続き担当。
開始半年後に日高と共に担当していた水曜担当の杉原徹が外れ、一人の状態で新『ハイヤン』全曜日の中でも高聴取率だったにも関わらず、KBS京都の経営環境が厳しい中で1997年9月一杯をもって新『ハイヤン』東京制作枠全廃を理由に終了が決定。最終回当日に開催されたファイナルイベントが参加リスナーのあまりの多さ(3000人以上)に会場周囲の歩道が歩行不能状態に陥ったことから警察が駆け付ける事態になり、敢え無く中止となる。紆余曲折を経て、最終回放送から約一ヵ月後、その年の年末の特番(「日高のり子のアロマチックウィンターナイト」)の公開録音を兼ねた仕切り直しのファイナルイベントが円山公園で開かれ終了する。

舞台[編集]

  • 「The Star Spangled Girl」(バナナフリッターズ 演出中尾隆聖)1991年
  • 「PLAY A SONG」(オムニバス。「始発の心」で塩沢兼人と共演。演出三ツ矢雄二)1993年
  • サクラ大戦歌謡ショウ「巴里花組特別ミニライブショウ」(エリカ・フォンティーヌ)2001年8月13日 (東京厚生年金会館)
  • サクラ大戦ディナーショー(エリカ・フォンティーヌ)

電気製品[編集]

その他[編集]

  • ウルティマ恐怖のエクソダス(ひだかのりこ)
    声の出演ではなく、本人がゲームキャラとして登場したのみ。イメージソング『ハートの磁石』を歌った。

音楽作品[編集]

シングル[編集]

  • ふた子のモンチッチのうた (いとうのりこ)
  • 初恋サンシャイン
  • もう一度・ブラックコーヒー
  • ひとつぶの涙
  • ときめきはForever
  • ウルティマ ~瞳のナイフ~
  • 潮風のサーキット
  • あなたが宇宙 ~BY MY SIDE~
  • 私だって <遠藤一美>
  • BE NATURAL/女神がくれた一秒
  • 未来(あした)への翼/虹の彼方
  • 真冬の流れ星 (WITH YOUとして)

アルバム[編集]

  • 南の青春
  • 南風に吹かれて
  • パーソナル
  • Touch in Memory <浅倉南>
  • パーソナル2
  • 日高のり子BEST
  • お宝ソングブック
  • パラダイス
  • MEGA BABE
  • Breath of air
  • KAZUMI <遠藤一美>
  • NONKO
  • タイムカプセル

書籍[編集]

  • のんこ(主婦の友社 ISBN:4072256676)

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