溝下秀男

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溝下 秀男(みぞした ひでお、1946年 - 2008年7月1日)は、20世紀から21世紀の初頭期にかけて活動した日本ヤクザ福岡県北九州市を本拠地とする暴力団工藤会の三代目会長、四代目総裁ならびに同代名誉顧問。『極道一番搾り』や『愛嬌一本締め』などの自著を世に出したことからも知られた。

1946年(昭和21年)、福岡県の嘉穂郡に出生。24歳で溝下組を結成し、同組織を率いて1979年に草野一家へ合流。その翌1980年における若頭への就任を経て、1990年に工藤会の会長へ。2000年をもって総裁へ退くとともに会長の座を野村悟に禅譲。2006年より名誉顧問の役職に就いた。

2008年の7月1日に北九州市内の病院で死去。61歳であった。6日に市内で開かれた葬儀には日本全国からおよそ1000名が参列。およそ800人の私服警官を動員した福岡県警による厳戒態勢のなか、九州誠道会のみを除いた全指定暴力団の当代ないしはその名代の参列に加え、四社会の盟友たる非指定団体・熊本会の当代の参列や、同じく非指定たる東亜会の当代による供花なども確認された。

盟友の野村悟とともに、もとは激しい抗争関係にあった工藤会と草野一家の一本化に尽力。その稀有な統率力と行動力とをもって実現させた組織の牽引と改革の断行が後世の評価の的とされた。草野一家の若頭であった頃から既に逸材としての評判を集めており、山口組道仁会との間に大規模な抗争(山道抗争)が発生した1980年代にあっては、草野一家総長・草野高明と太州会会長・太田州春の意向を受けて和平工作に奔走、自ら山・道双方に掛け合う形で功績を挙げたことが評価された。服役中の古賀磯次に代わって当時の道仁会を指揮していた松尾誠次郎とはほぼ同年齢であり、その松尾と並ぶ九州極道界の未来の二大巨頭の一方であるとする前評判を当時から獲得していた。

事務所にコンピュータを導入しそれを自ら操作するという近代的センスは安田雅企の特筆の的となった。現役時代に『極道一番搾り』(1996年)やその続編にあたる『愛嬌一本締め』(1998年)などといった自身の随筆集を上梓。読者のみならず関係編集者らの間でも高い人気を誇ったと伝えられている。