平徳子

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平 徳子(たいら の とくこ/とくし/のりこ[1]久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日1214年1月25日))は、平安時代末期の高倉天皇中宮女院安徳天皇国母平清盛の次女で、母は正室平時子(二位尼)。異母兄に重盛、同母兄弟に宗盛知盛重衡など。院号建礼門院(けんれいもんいん)。建礼門院德子と呼ばれる。

父清盛の意思で、高倉天皇に入内して皇子を産む。子の安徳天皇の即位後は国母と呼ばれるが、栄華は短く、やがて清盛は病死し、源氏の攻撃に追われて平氏一門は都落ちし、海上を流浪する。壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅亡し、母の二位尼(時子)や安徳天皇は入水。徳子は生き残りへ送還され、になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。

軍記物語平家物語』のヒロイン的存在で全巻の幕引き役となっている。

生涯

中宮徳子

忠盛    時信
 ┃    ┣━━┳━━┓
清盛==時子 時忠 滋子==後白河上皇
 ┃  ┣━━┓       ┃   
重盛 宗盛 徳子====高倉天皇
          ┃
         安徳天皇

徳子は清盛と正妻時子との次女として生まれた。父の清盛は保元の乱平治の乱に勝利して、武家ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成する。仁安2年(1167年)には遂に太政大臣にまで上り詰めた。そして、その権力を盤石にする手段が、藤原氏と同じく天皇外戚となることであった。

高倉天皇は時子の妹平滋子(建春門院)の子であったが、清盛は天皇家との結び付きをより強めるべく徳子の入内を望んだ。徳子をいったん後白河法皇猶子となして形式を整えたうえで、承安元年(1171年)、17歳の徳子は11歳の高倉天皇の元に入内して中宮となる。

入内から7年後の治承2年(1178年)、24歳になった徳子は懐妊する。清盛ら平氏一門は男子の誕生を願って諸寺社に盛んに加持祈祷をさせた。この時の安産祈願で保元の乱で流罪となり、当時「讃岐院」としか称されていなかった崇徳天皇には諡号を定め、また敗死した藤原頼長には従一位太政大臣の位を追贈する。そして安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀事件で鬼界ヶ島へ流されていた平康頼藤原成経が赦免されている(俊寛のみが許されず島で憂死した)。同年11月12日、徳子は男子、言仁親王を生む。翌12月には親王は立太子された。

徳子は高倉天皇より6歳も年上で、必ずしも仲睦まじくなく、天皇は葵の前を寵愛し、彼女が急死すると悲嘆にくれたが、その後は冷泉隆房(清盛の娘婿)の恋人であった小督を溺愛するようになった。小督は皇女(範子内親王)を産むが、清盛は怒って小督を尼にして追放させた。この一件は『平家物語』では悲劇とされるが、冷泉隆房の歌集『艶詞』によるともともと高倉の寵愛を受けていたはずであった小督がその後も隆房と密通を重ねており、当時の宮中の風紀の乱れの一例である。

後白河法皇と清盛との対立も高倉天皇を悩ませた、治承3年(1179年)11月、近衛家の所領継承問題に不満を持った清盛がクーデターを断行して法皇を幽閉してしまった(治承三年の政変)。

翌治承4年(1180年)2月、政権を掌握した清盛は高倉天皇を退位させて、3歳の言仁親王を即位させた(安徳天皇)。これで、清盛は天皇の外戚となった。

安徳天皇の即位に不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子以仁王源頼政と結んで、同年5月に平氏打倒の挙兵をした。この以仁王の挙兵は準備不足もあって短期間で鎮圧され、以仁王と頼政は敗死するが、以仁王が発した令旨に諸国の源氏や大寺社が呼応して、治承・寿永の乱に突入する。

同年6月に清盛は遷都を目指して福原行幸を断行。高倉上皇と徳子も福原へ移り、公家も民も大混乱となった。結局、遷都は失敗で11月には京都に戻っている。この騒動の中で病弱だった高倉上皇は病になり、治承5年(1181年)正月に薨去する。『平家物語』では、先の小督局との一件で悲嘆して死去したとこになっている。『玉葉』同年正月13日の条によると、徳子を後白河法皇の後宮に入れようという策があり、清盛も承知したが、徳子がこれを強く拒み出家を願ったという。同年11月、徳子は院号宣下により建礼門院と称する。

建礼門院

養和2年(1182年)父清盛が熱病で死去。平氏は各地の反平氏勢力との戦いで苦戦する。

寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は京都からの撤退を余儀なくされ、徳子は安徳天皇とともに三種の神器を携えて都落ちした。いったんは九州大宰府へ逃れるが在地の武士の緒方惟義に追われ、平氏一門は苦しい船上での流浪を余儀なくされ、絶望した甥の清経が入水自殺してしまう。

やがて、平氏は勢力を盛り返して、讃岐国屋島に仮の内裏を置き、そして摂津国福原まで進出する。だが、寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦い源頼朝の弟の範頼義経に大敗を喫し、一門の多くを失い、兄の重衡も捕らえられてしまった。そして、元暦2年/文治元年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は義経に敗れ、母の二位尼は三種の神器を携え、安徳天皇とともに入水した。徳子も今はこれまでとと石を懐に入れて海に身を投げるが、渡辺昵に熊手で髪を引っかけて引き上げられ、捕虜となってしまった。

同年4月、徳子は京へ送還された。武士ではないので罪に問われることはなく、洛北東山の麓の吉田の地に置かれた。

同年5月1日、徳子は長楽寺印西上人を戒師に落飾して尼になり、直如覚と名乗った。徳子は先帝(安徳天皇)が御召になった御直衣をお布施とした。長楽寺はこの御直衣を幡(旗)にして現在でも伝えている。

徳子のもとには妹の冷泉隆房の妻と七条信隆の妻がしばしば訪ねて日々の糧を助けた。

吉田の地も人目が多く、同年9月に徳子は大原山の奥の寂光院へ移って、庵を結び先帝と一門の菩提を弔う日々を過ごした。徳子には兄重衡の未亡人の藤原輔子信西の娘の阿波内侍が仕えた。

大原御幸

後白河法皇が大原寂光院の徳子を訪ねる灌頂の巻は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わる。この大原御幸の史実性については諸説ある。

文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定花山院兼雅土御門通親北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねてきた。

徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘と生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに飢餓道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は『波の下にも都がございます』と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしはで昔の内裏よりも立派な場所で先帝と平家一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流した[2]

その後、徳子は大原の山里で春秋を過ごし、建保元年(1214年)、念仏を唱えながら輔子と阿波内侍に看取られて死去したとされる。(『平家物語』では建久2年(1191年)2月)[3]

陵墓・霊廟

は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。また安德天皇とともに各地の水天宮で祀られている。

補注

  1. 名前の読みに関して、小説やドラマなどでは「とくこ」と読まれる場合が多いが、当時の人名が重箱読みされることはまずあり得ないため、無理がある(読みが分からない女性名を音読みする歴史学の慣習に従えば「とくし」であるが、当時本人がそう呼ばれた訳ではない)。女性の名前についての研究をまとめた「日本の女性名」(角田文衛著、教育社、1980年)では「のりこ」の読みを採用している。しかしながら、必ずしも角田説の「のりこ」の読みは一般的ではなく、小説のみならず中世史研究者の書籍でも依然「とくこ」(例:上杉和彦明治大学教授『戦争の日本史 6 源平の争乱』(吉川弘文館 2007年)、関幸彦鶴見大学教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』(青春出版社、2004年)など)または「とくし」(奥富敬之早稲田大学講師「歴史群像シリーズ 平清盛」)と読みのルビが打たれている。
  2. 『平家物語』の徳子と後白河法皇との問答は2500文字以上あるため、本文の会話文はその大意。
  3. 但し、徳子は大原ではなく洛東で亡くなったという有力な異説がある。 参考文献『平家後抄』下「女院の動静」「金仙院-建礼門院の末年-」角田文衛著、講談社 ISBN 4061594354

関連項目

演じた人物

2012年平清盛。二階堂文

外部リンク