吉井信照

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吉井 信照(よしい のぶてる)は、日本陸軍軍人吉井藩の藩主だった吉井家の第12代当主・吉井信謹の次男、子爵・吉井信宝の弟[1]日露戦争のとき、旅順包囲戦に参加。帰国後、歩兵第2旅団副官。1910年に長期休暇を願い出てマレー半島へ渡り、ゴム園の取得を申請。翌年予備役となり、ジョホール国でゴム園経営を試みたが、マラリヤの罹患などにより失敗したとみられている。1913年頃、ゴム園経営の傍らで行っていた狩猟が日本の新聞等で報道され、話題となった。第2次世界大戦中は、マライ軍政監部に所属。病気のため帰国し、病没した。

経歴[編集]

学習院に学び、陸軍士官学校を卒業後、軍人となった[2]東京市四谷区愛住町に住居があった[2](1913年頃、四谷左門町にあった、とも[3])。

日露戦争のとき(1904年 - 1905年)、歩兵第2連隊附として乃木希典の軍勢に従軍し、旅順包囲戦に参加[2]。鉢巻山の戦いで中隊が全滅に至るまで力戦奮闘したとして乃木から感状を授けられ、金鵄勲章功4級に叙せられた[4]

帰国後、長岡将軍仙波将軍(歩兵第2旅団)の副官に任命された[5]

1910年(明治43)8月、海峡植民地などの軍事一般の視察を目的として1年間の長期休暇を願い出、旅費の支出を受けて、同年9月下旬に日本を出国した。10月中旬にシンガポールに到着し、約6ヶ月間滞在した後、マレー連邦諸国、ジャワ、ボルネオ地方を旅行し、1911年(明治44)8月にシンガポールから日本に帰国する予定だった。[6][7]

渡航後、マレー半島ジョホール国に入り、ゴム園の開発を試みた[5]

  • 1910年11月2日にシンガポールに到着後、ジョホール州コタティンギへ移動し、その後同州西岸のバトゥパハへ至り、100エーカーのゴム園の取得を希望した[8]
  • 同年12月下旬に、吉井が軍事研究に従事せず、ゴム栽培の営利事業に奔走していると歩兵第2旅団に内部告発があり、陸軍省が事情を調査し、外務省在シンガポール日本領事館を通じて吉井本人に照会した結果、翌1911年はじめに、吉井がシンガポール到着後、ジョホール河沿岸に500エーカーの土地取得を申請していたことが確認され、本人は時宜に叶っているため軍事研究を後にし、土地取得を先にした、ゴム経営は怪しまれずに現地の事情を調査するのに役に立つ、など弁明し、同年3月に自己都合で休暇を中断し日本へ帰国することを願い出た(実際、帰国したのかは不明)。[9][10]
  • このとき第1師団が東京憲兵隊を通じて調査した内容によると、吉井の実兄・信宝は、1908年(明治41)7月頃から株式や石炭鉱山等の事業に関わって度々失敗を重ねており、家政の乱れを挽回するため苦心する中で、ゴム栽培事業が有利だと聞き、同業が盛んなシンガポールの事情調査を吉井に依頼していたという。しかし本格的に事業に乗り出すというほど多額の金員を所持したり、送金を受けたりしたわけでもない、とも報告されていた。[11]

1911年(明治44)6月19日付で予備役に編入[12]。位1級昇進し、従5位勲5等功4級に叙せられた[13]

1913年7月頃、陸軍予備中尉として、ジョホール国でゴム栽培に従事しながら、四谷(左門町)の自邸に帰省していた[14][3]。この頃すでに、ゴム園経営の傍らで行っていた狩猟(猛獣狩り)のことが新聞等で報道され、話題となっていたという[3]。このときの吉井本人へのインタビューによると、ゴム園経営の方は、日本からジョホールのゴム園へ農夫を13人ほど連れて行ったが、1組の夫婦を除いて、他は全員10ヵ月あまりのうちに皆マラリヤに罹患して日本に帰国してしまい、10ヵ月といっても実働は30日から60日程度だった、という[3]

  • 旧藩領の(群馬県)吉井町からもゴム栽培に従事するためマレー半島へ渡航した人(ないし世帯)が5人(ないし世帯)ほどあったが、気候風土の相違やマラリヤのため日本に帰国するものもあり、かじ町の堀越粂蔵は帰郷後、マラリヤのため死去した[5]

1915年頃、「内地の用向き」が済んだため、再びマレー半島へ渡航。ジョホール河沿岸の日本人が経営するゴム園の経営に関与し、ジョホール国王の許可を得て野象狩りをした[15]

この間(時期不定で)、マレー半島、ジャワスマトラおよびボルネオ方面を旅行視察したり、象狩や虎狩をして、各方面での話題となった[16]

1917年(大正6)12月、ジョホール州で創立された日南護謨株式会社の専務取締役となった[5]

  • 堀 (1974 696)によると、ゴム栽培事業は結局不成功に終わったという。

1921年(大正10)に徳川義親のマレー半島での狩猟旅行に同行した[17]

第2次世界大戦中は、マライ軍政監部に属していたが、病気のため日本に帰国し、病没した[16]

著書[編集]

  • 1952年7月 吉井信照、古賀亜十夫「痛快実話 巨象を迫って」講談社『少年クラブ』v.39 n.8 pp.266-、NDLJP 1798714/136 (閉)
  • 1952年4月 ――、一瀬幸三「南北虎狩り痛快談マレー満州」講談社『少年クラブ』v.39 n.5 pp.112-、NDLJP 1798709/58 (閉)
  • 1930年7月 ――、鈴木御水「南洋奇談 虎と虎の闘ひを見る」大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』v.17 n.7 pp.100-、原版 NDLJP 1758572/80 (閉) 復刻版 NDLJP 1764762/80 (閉)
  • ― (1927) 1927年 ――「馬来半島秋の想出 虎に喰はれ損つた話」日本植民通信社『植民』v.6 n.9 pp.84-86、NDLJP 1480113/56 (閉)
  • 1919年 ――『馬来半島に於ける余の猛獣狩』泰盛社、NDLJP 960677
  • ― (1915b) 1915年12月 ――「冒険実話馬来密林中の野象狩」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.12 pp.45-50、NDLJP 1830322/41 (閉)
  • ― (1915a) 1915年6月 ――「痛絶快絶野象を追ふて密林中に奮戦す」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.6 pp.43-47、NDLJP 1830316/36 (閉)
  • ― (1913b) 1913年7月 ――「南洋の猛獸狩」金丸銃砲店『銃猟界』v.9 n.7 pp.17-20、NDLJP 1508790/13 (閉)
  • ― (1913a) 1913年7月15日 ――(述)「南洋で成功するには暢気も必要」実業之世界社『実業の世界』v.10 n.14 pp.65-68、NDLJP 10292872/48 (閉)

人物・評価[編集]

  • 吉井 (1927 84)は、ゴム栽培が本業で、猛獣狩猟は本業ではなかったが、世間では反対の意味で有名になってしまった、としている。
  • 『南洋の50年』(南洋及日本人社 1938 618-624)は、マレーの猛獣猟家の権威と紹介している。
  • 堀 (1974 696)は、その人となりは豪放、進取の気性に富んだ、としている。
  • 中野 (1977 75)は旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた人物と紹介している。

家族[編集]

  • 妻・さだは、元清水徳川家・伯爵・徳川篤守の次女で、侯爵・蜂須賀茂昭の養女[16]
  • 父・吉井信謹は、旧吉井藩主・吉井家の第12代当主[16]
  • 母・千枝子は、子爵・細川家から吉井家に嫁いだ[16]
  • 兄・吉井信宝は子爵、吉井家当主[16]
  • 娘・百合子は土屋氏へ嫁いだ[16]

吉井藩関係史料[編集]

吉井藩関係の古文書は、吉井の兄・信宝の子・信康や、吉井の娘・土屋百合子によって、吉井町郷土資料館に寄贈された[16]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

吉井の著書については、#著書を参照。

  • 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
  • 堀 (1974) 堀一二三「虎狩の殿様」吉井町誌編さん委員会『吉井町誌』吉井町誌編さん委員会、NCID BN02124622、pp.695-698
  • 南洋及日本人社 (1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、NDLJP 1462610
  • 徳川 (1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP 983300
  • 内閣 (1911) 内閣総理大臣公爵桂太郞「陸軍一等軍医正福井治昌外五名特旨叙位ノ件/海軍中佐峰逸平外一名、元警視新居友三郎」国立公文書館 太政官・内閣関係 叙位裁可書 明治44年 叙位巻14、1911年(明治44)6月20日、JACAR A12090072300
  • 軍務局 (1911) 軍務局軍事課「吉井歩兵大尉の行動に関する件」防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 密大日記 明治44年 密大日記1明治44年、1911年(明治44)、JACAR C03023007000
  • 陸軍省 (1910) 陸軍次官男爵石本新六「外国旅行の件通牒」外務省外交史料館 戦前期外務省記録5門 軍事1類 国防10項 軍事調査及報告帝国陸海軍将校海外派遣雑件/陸軍ノ部 第2巻、1910年(明治43)9月17日、JACAR B07090453600
  • 第1師団 (1910) 第1師団「肆第1584号 吉井大尉外国旅行願の件」防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 明治43年 肆大日記 9月、1910年(明治43)8月24日、JACAR C07072854800