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[[Image:Japanese Cemetery Park.jpg|thumb|日本人墓地公園入口]]
 
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'''シンガポール日本人墓地公園'''(シンガポールにほんじんぼちこうえん)は、[[シンガポール]]・{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}のチュアン・ホウ・アベニュー825B にある、[[日本人墓地]]のある公園。1891年に創設され、シンガポールの在留日本人の遺骸が葬られた。ロシアからの帰国途上に客死した[[二葉亭四迷]]の墓が有名。日本軍の占領中・終戦直後には多くの戦没者の慰霊碑が建立された。1957年には墓地の管理を目的の一つとして[[シンガポール日本人会]]が設立された。{{要検証範囲|1974年|date=2016年3月}}にシンガポール政府から墓地使用禁止命令が出されたことを契機に、墓地公園として保存されることになった。<ref>この記事の主な出典は、{{Harvtxt|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|pp=162,174}}、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=223-228}}。</ref>
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'''シンガポール日本人墓地公園'''(シンガポールにほんじんぼちこうえん)は、[[シンガポール]]・{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}のチュアン・ホウ・アベニュー825B にある、[[日本人墓地]]のある公園。1891年に創設され、シンガポールの[[在外日本人|在留日本人]]の遺骸が葬られた。[[ロシア]]からの帰国途上に客死した[[二葉亭四迷]]の墓が有名。日本軍の占領中・終戦直後には多くの戦没者の慰霊碑が建立された。1957年には墓地の管理を目的の一つとして[[シンガポール日本人会]]が設立された。1974年にシンガポール政府から墓地使用禁止命令が出されたことを契機に、墓地公園として保存されることになった。
  
 
== 歴史 ==
 
== 歴史 ==
 
=== 創設 ===
 
=== 創設 ===
1888年11月、シンガポールの主な在留日本人が[[からゆきさん|娘子軍]]の女性たちだった頃、娼館・ゴム園・雑貨商を経営して成功した二木多賀次郎が、彼女たちが獄死者や斃馬の埋葬地に葬られていたのを哀れに思い、自己所有のゴム園の一角に墓地を作ったのが始まり{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=162}}<ref>{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}、「南洋の50年」からの引用として。</ref>
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1888年11月、シンガポールの主な在留日本人が[[からゆきさん|娘子軍]]の女性たちだった頃、娼館・ゴム園・雑貨商を経営して成功した二木多賀次郎が、彼女たちが獄死者や斃馬の埋葬地に葬られていたのを哀れに思い、自己所有のゴム園の一角に墓地を作ったのが始まり{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|p=162}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978|p=90 - 「南洋の50年」からの引用として。}}。
  
1891年、二木と、かつて上海に滞在し[[本願寺]]の慈善会墓地を知っていた渋谷銀治と中川菊三が協力してシンガポール政庁に日本人墓地の創設を請願し、同年6月26日にシンガポール政庁の許可を受けて{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}に二木の所有していたゴム園の一角6エーカーと公有地2エーカーを合わせた8エーカー(約1万坪)の墓地を新設した{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|pp=162,174}}<ref>{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}、「南洋の50年」からの引用として。</ref>
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1891年、二木と、かつて[[上海]]に滞在し、[[本願寺]]の慈善会墓地を知っていた渋谷銀治と中川菊三が協力してシンガポール政庁に日本人墓地の創設を請願し、同年6月26日にシンガポール政庁の許可を受けて{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}に二木の所有していたゴム園の一角6エーカーと公有地2エーカーを合わせた8エーカー(約1万坪)の墓地を新設した{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|pp=162,174}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978|p=90 - 「南洋の50年」からの引用として。}}。
  
{{Harvtxt|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=162}}によると1888年の墓地創設時、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}にある「南洋の50年」からの引用によると1891年の墓地新設時に、囚人墓地に埋められていた日本人(27人)の遺骨が新墓地に改葬された。
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{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=162}}によると、1888年の墓地創設時、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}にある「南洋の50年」からの引用によると、1891年の墓地新設時に、囚人墓地に埋められていた日本人(27人)の遺骨が新墓地に改葬された。
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二木は後に自身で私有地4エーカー余を寄付し、999年無料貸下げの許可を得た{{Sfn|シンガポール日本人会|1978|p=90 - 「南洋の50年」からの引用として。}}。
  
二木は後に自身で私有地4エーカー余を寄付し、999年無料貸下げの許可を得た<ref>{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}、「南洋の50年」からの引用として、</ref>。
 
 
=== 管理 ===
 
=== 管理 ===
{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}は、「南洋の50年」からの引用として、創設以来、二木が墓地の維持管理にあたった、としているが、{{Harvtxt|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=174}}によると1888年には墓地内の[[無縁仏]]の管理にあたるため共済会(はじめ慈善会と称した)が発足しており、{{Harvtxt|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=162}}は、墓地の管理は有志と共済会、日本人会が行っていた、としている。
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{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978|p=90}}は、「南洋の50年」からの引用として、創設以来、二木が墓地の維持管理にあたった、としているが、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=174}}によると、1888年には墓地内の[[無縁仏]]の管理にあたるため共済会(はじめ慈善会と称した)が発足しており、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=162}}は、墓地の管理は有志と共済会、日本人会が行っていた、としている。
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=== 御堂 ===
 
=== 御堂 ===
2004年現在、墓地内にある御堂は無宗教の御堂となっている{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=162}}。以前の御堂は釈教山西有寺といい、1893年に、兵庫県出身でシンガポールに渡来し托鉢を続けていた楳仙和尚が結んだ草庵を由来とし、1911年12月に[[永平寺]]管主・[[日置黙仙]]和尚によって開堂式が行われた{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|pp=162,174}}。当時の御堂は[[シロアリ]]被害で現存せず、2004年現在の御堂が3代目となっている{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=162}}。
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2004年現在、墓地内にある御堂は無宗教の御堂となっている{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|p=162}}。以前の御堂は釈教山西有寺といい、1893年に、兵庫県出身でシンガポールに渡来し托鉢を続けていた楳仙和尚が結んだ草庵を由来とし、1911年12月に[[永平寺]]管主・[[日置黙仙]]和尚によって開堂式が行われた{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|pp=162,174}}。当時の御堂は[[シロアリ]]被害で現存せず、2004年現在の御堂が3代目となっている{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|p=162}}。
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=== 墓標数 ===
 
=== 墓標数 ===
公園内には910基の墓標があり、氏名合計は1,013柱{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=174}}。没年別では
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公園内には910基の墓標があり、氏名合計は1,013柱{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|p=174}}。没年別では
 
*明治時代 309柱
 
*明治時代 309柱
 
*大正時代 122柱
 
*大正時代 122柱
*昭和時代 88柱
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*昭和時代 {{0}}88柱
*不明 494柱
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*年代不明 494柱
となっている{{Sfn|シンガポール日本人会・史蹟史料部|2004|p=174}}。
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=== 二葉亭四迷の墓 ===
 
=== 二葉亭四迷の墓 ===
 
{{いつ|date=2016年3月}}[[ロシア]]から日本へ帰る途中、[[インド洋]]上で病没した[[ロシア文学]]者の[[二葉亭四迷]]の遺骸が葬られ、その墓は墓地の東北隅にある{{Sfn|篠崎|1976|p=225}}。
 
{{いつ|date=2016年3月}}[[ロシア]]から日本へ帰る途中、[[インド洋]]上で病没した[[ロシア文学]]者の[[二葉亭四迷]]の遺骸が葬られ、その墓は墓地の東北隅にある{{Sfn|篠崎|1976|p=225}}。
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=== 戦時中 ===
 
=== 戦時中 ===
 
[[File:Japanese war memorial, Japanese Cemetery Park, Singapore - 20070526.jpg|thumb|日本人戦没者の慰霊碑]]
 
[[File:Japanese war memorial, Japanese Cemetery Park, Singapore - 20070526.jpg|thumb|日本人戦没者の慰霊碑]]
日本がシンガポールを占領すると、[[マレー作戦]]での戦没者の記念碑など大型の石碑が建てられた{{Sfn|篠崎|1976|pp=225-226}}。主なものは下記のとおり{{Sfn|篠崎|1976|pp=226-228}}。
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日本がシンガポールを占領すると、[[マレー作戦]]での戦没者の記念碑など大型の石碑が建てられた{{Sfn|篠崎|1976|pp=225-226}}
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{{Small|※以下、特に断り書きのない場合の出典は、{{Harvnb|篠崎|1976|pp=226-228}}。 }}
 
*寺内寿一の墓
 
*寺内寿一の墓
 
:1946年に[[ジョホール州]][[レンガム]]で病没した[[寺内寿一]]の墓碑。日本軍作業隊によって建てられた。
 
:1946年に[[ジョホール州]][[レンガム]]で病没した[[寺内寿一]]の墓碑。日本軍作業隊によって建てられた。
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*日本軍作業隊の碑
 
*日本軍作業隊の碑
 
:終戦後、苛酷な労働に従事した作業隊員の死亡者という印象を与えるが、実は日本軍の占領中に死亡した軍人・軍属の遺骨が、内地送還の便船がないため市内の本願寺に安置されていたものを、この墓地に埋葬しており、その数約4千柱とみられている。終戦後、作業隊に従事しての死亡者数に関しては正確な記録が残っていない。
 
:終戦後、苛酷な労働に従事した作業隊員の死亡者という印象を与えるが、実は日本軍の占領中に死亡した軍人・軍属の遺骨が、内地送還の便船がないため市内の本願寺に安置されていたものを、この墓地に埋葬しており、その数約4千柱とみられている。終戦後、作業隊に従事しての死亡者数に関しては正確な記録が残っていない。
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*陸海軍人軍属留魂の碑
 
*陸海軍人軍属留魂の碑
 
*殉国烈士の碑
 
*殉国烈士の碑
 
*近歩5連隊の墓
 
*近歩5連隊の墓
 
:マレー作戦の激戦地、[[ジョホール州]]{{仮リンク|バクリ|en|Bukit Bakri}}の戦いで全滅に瀕した[[大柿正一|大柿隊長]]以下の戦死者の追悼碑
 
:マレー作戦の激戦地、[[ジョホール州]]{{仮リンク|バクリ|en|Bukit Bakri}}の戦いで全滅に瀕した[[大柿正一|大柿隊長]]以下の戦死者の追悼碑
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*戦犯受刑者の墓
 
*戦犯受刑者の墓
 
:135柱と彫ってある小型のコンクリートの墓標は、[[チャンギ刑務所]]で処刑された戦犯の遺骨の一部を埋葬したもの、79柱は同じく[[クアラルンプール]]、[[マラッカ]]、[[ペナン]]で処刑された戦犯の遺骨の一部。
 
:135柱と彫ってある小型のコンクリートの墓標は、[[チャンギ刑務所]]で処刑された戦犯の遺骨の一部を埋葬したもの、79柱は同じく[[クアラルンプール]]、[[マラッカ]]、[[ペナン]]で処刑された戦犯の遺骨の一部。
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*ひのもと地蔵
 
*ひのもと地蔵
 
:終戦後、[[ジュロン]]の集結所で死亡した日本人41名の慰霊のため、[[赤道会]]や[[ジュロン会]]が醵金して建立したもの。
 
:終戦後、[[ジュロン]]の集結所で死亡した日本人41名の慰霊のため、[[赤道会]]や[[ジュロン会]]が醵金して建立したもの。
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=== 戦後 ===
 
=== 戦後 ===
 
戦後しばらくは、日本人のシンガポール入国は禁止されていたため訪れる人もなく荒れるに任せていたが、1952年の日本[[総領事館]]再開後、館員と在留邦人が共同で清掃管理にあたり、[[二宮謙]]総領事を委員長とする「日本人共同墓地管理委員会」が設立され、同委員会を組織・運営していくための母体として1957年1月8日に[[シンガポール日本人会]]の前身「日本クラブ」が発足した{{Sfn|シンガポール日本人会|1978|p=90}}。
 
戦後しばらくは、日本人のシンガポール入国は禁止されていたため訪れる人もなく荒れるに任せていたが、1952年の日本[[総領事館]]再開後、館員と在留邦人が共同で清掃管理にあたり、[[二宮謙]]総領事を委員長とする「日本人共同墓地管理委員会」が設立され、同委員会を組織・運営していくための母体として1957年1月8日に[[シンガポール日本人会]]の前身「日本クラブ」が発足した{{Sfn|シンガポール日本人会|1978|p=90}}。
  
戦後、シンガポールでは、墓地を接収して宅地開発が進められ、日本人墓地に対しても{{要検証範囲|1974年に|date=2016年3月}}墓地使用禁止命令が伝達されたが、日本大使館とシンガポール日本人会がシンガポール政府と折衝した結果、墓地公園として保存することが許可された{{Sfn|篠崎|1976|p=228}}。
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戦後、シンガポールでは、墓地を接収して宅地開発が進められ、日本人墓地に対しても1974年に墓地使用禁止命令が伝達されたが、日本大使館とシンガポール日本人会がシンガポール政府と折衝した結果、墓地公園として保存することが許可された{{Sfn|篠崎|1976|p=228}}。
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== 所在地 ==
 
== 所在地 ==
 
[[シンガポール]]・{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}の、アッパー・セラングーン路(Upper Serangoon Road)を左折してイオ・チュー・カン路(Yio Chu Kang Road)をしばらく行った右側にあるチュアン・ホウ・アベニュー(Chuan Hoe Avenue)に入り、墓地の標識から10メートルほど入った所に入口の門がある{{Sfn|篠崎|1976|p=223}}。
 
[[シンガポール]]・{{仮リンク|セラングーン|en|Serangoon}}の、アッパー・セラングーン路(Upper Serangoon Road)を左折してイオ・チュー・カン路(Yio Chu Kang Road)をしばらく行った右側にあるチュアン・ホウ・アベニュー(Chuan Hoe Avenue)に入り、墓地の標識から10メートルほど入った所に入口の門がある{{Sfn|篠崎|1976|p=223}}。
== 寄付 ==
 
{{要出典|範囲=シンガポール日本人会は、日本人墓地公園の寄付活動を続けている。ご寄付を頂いた方々(S$100以上)のお名前は1年ごとに纏めてメモリアルプラザの銘版に記載される。|date=2016年3月}}
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author = シンガポール日本人会・史蹟史料部 |year = 2004 |title = 戦前シンガポールの日本人社会-写真と記録 改訂版 |publisher = シンガポール日本人会 |date= 2004-5-21 |isbn =  |ref= harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author = シンガポール日本人会|year= 1978|first = |title = 戦後の日本人の歩み‐シンガポール日本人会を中心に‐ |date = 1978-3 |publisher = シンガポール日本人会|journal = 「南十字星」10周年記念復刻版―シンガポール日本人社会の歩み |pages = 83-137 |ref= harv}}
 
* {{Cite book|和書|last = 篠崎|year = 1976|first = 護|authorlink = 篠崎護|title = シンガポール占領秘録―戦争とその人間像|publisher = 原書房|ref = harv}}
 
  
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== 募金 ==
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2019年現在、シンガポール日本人会が日本人墓地公園への募金活動をしている{{Sfn|シンガポール日本人会|2019}}。
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==付録==
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=== 脚注 ===
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=== 参考文献 ===
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=2004}} シンガポール日本人会史蹟史料部『戦前シンガポールの日本人社会-写真と記録 改訂版』シンガポール日本人会、{{JPNO|21162150}}
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=1978}} シンガポール日本人会「戦後の日本人の歩み ‐ シンガポール日本人会を中心に」『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』{{JPNO|79090009}}、pp.83-137
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*{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}}
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=== 外部リンク ===
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*{{Aya|シンガポール政府観光局|year=2020}} [https://www.visitsingapore.com/ja_jp/see-do-singapore/history/memorials/japanese-cemetery-park/ ホーム &gt; 観光&体験 &gt; 歴史 &gt; 日本人墓地公園] 2020年5月19日閲覧
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*{{Aya|FUTURE STAGE PTE LTD|year=2020}} [https://www.future-stage.com/japanese-cemetery/ ホーム &gt; シンガポール &gt; (シンガポール)日本人墓地公園] 2020年5月19日閲覧
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=2019}} [http://www.jas.org.sg/link/related/link_cemetery_ja.html ホーム &gt; リンク(関連サイト) &gt; 日本人墓地公園] 2019年12月19日更新、2020年5月19日閲覧
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{{Coord|1.3654873|N|103.8765215|E|display=title|format=dms|label=日本人墓地公園}}
 
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[[Category:シンガポールの歴史]]
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[[Category:日本人墓地]]
 
[[Category:日本人墓地]]
 
[[Category:シンガポールの観光地]]
 
[[Category:シンガポールの観光地]]
 
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[[Category:在シンガポール日本人]]
== 外部リンク ==
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* [http://www.jas.org.sg/ シンガポール日本人会 公式サイト]
+
* [https://www.future-stage.com/japanese-cemetery/ シンガポール日本人墓地映像]
+
 
+
[[Category:在シンガポール日本人|*しんかほおるにほんしんほちこうえん]]
+

2020年5月19日 (火) 21:26時点における最新版

ファイル:Japanese Cemetery Park.jpg
日本人墓地公園入口

シンガポール日本人墓地公園(シンガポールにほんじんぼちこうえん)は、シンガポールセラングーンEnglish版のチュアン・ホウ・アベニュー825B にある、日本人墓地のある公園。1891年に創設され、シンガポールの在留日本人の遺骸が葬られた。ロシアからの帰国途上に客死した二葉亭四迷の墓が有名。日本軍の占領中・終戦直後には多くの戦没者の慰霊碑が建立された。1957年には墓地の管理を目的の一つとしてシンガポール日本人会が設立された。1974年にシンガポール政府から墓地使用禁止命令が出されたことを契機に、墓地公園として保存されることになった。

歴史[編集]

創設[編集]

1888年11月、シンガポールの主な在留日本人が娘子軍の女性たちだった頃、娼館・ゴム園・雑貨商を経営して成功した二木多賀次郎が、彼女たちが獄死者や斃馬の埋葬地に葬られていたのを哀れに思い、自己所有のゴム園の一角に墓地を作ったのが始まり[1][2]

1891年、二木と、かつて上海に滞在し、本願寺の慈善会墓地を知っていた渋谷銀治と中川菊三が協力してシンガポール政庁に日本人墓地の創設を請願し、同年6月26日にシンガポール政庁の許可を受けてセラングーンEnglish版に二木の所有していたゴム園の一角6エーカーと公有地2エーカーを合わせた8エーカー(約1万坪)の墓地を新設した[3][2]

シンガポール日本人会 (2004 162)によると、1888年の墓地創設時、シンガポール日本人会 (1978 90)にある「南洋の50年」からの引用によると、1891年の墓地新設時に、囚人墓地に埋められていた日本人(27人)の遺骨が新墓地に改葬された。

二木は後に自身で私有地4エーカー余を寄付し、999年無料貸下げの許可を得た[2]

管理[編集]

シンガポール日本人会 (1978 90)は、「南洋の50年」からの引用として、創設以来、二木が墓地の維持管理にあたった、としているが、シンガポール日本人会 (2004 174)によると、1888年には墓地内の無縁仏の管理にあたるため共済会(はじめ慈善会と称した)が発足しており、シンガポール日本人会 (2004 162)は、墓地の管理は有志と共済会、日本人会が行っていた、としている。

御堂[編集]

2004年現在、墓地内にある御堂は無宗教の御堂となっている[1]。以前の御堂は釈教山西有寺といい、1893年に、兵庫県出身でシンガポールに渡来し托鉢を続けていた楳仙和尚が結んだ草庵を由来とし、1911年12月に永平寺管主・日置黙仙和尚によって開堂式が行われた[3]。当時の御堂はシロアリ被害で現存せず、2004年現在の御堂が3代目となっている[1]

墓標数[編集]

公園内には910基の墓標があり、氏名合計は1,013柱[4]。没年別では

  • 明治時代 309柱
  • 大正時代 122柱
  • 昭和時代 088柱
  • 年代不明 494柱

となっている[4]

二葉亭四迷の墓[編集]

いつ?ロシアから日本へ帰る途中、インド洋上で病没したロシア文学者の二葉亭四迷の遺骸が葬られ、その墓は墓地の東北隅にある[5]

戦時中[編集]

日本がシンガポールを占領すると、マレー作戦での戦没者の記念碑など大型の石碑が建てられた[6]

※以下、特に断り書きのない場合の出典は、篠崎 1976 226-228。

  • 寺内寿一の墓
1946年にジョホール州レンガムで病没した寺内寿一の墓碑。日本軍作業隊によって建てられた。
  • 日本軍作業隊の碑
終戦後、苛酷な労働に従事した作業隊員の死亡者という印象を与えるが、実は日本軍の占領中に死亡した軍人・軍属の遺骨が、内地送還の便船がないため市内の本願寺に安置されていたものを、この墓地に埋葬しており、その数約4千柱とみられている。終戦後、作業隊に従事しての死亡者数に関しては正確な記録が残っていない。
  • 陸海軍人軍属留魂の碑
  • 殉国烈士の碑
  • 近歩5連隊の墓
マレー作戦の激戦地、ジョホール州バクリEnglish版の戦いで全滅に瀕した大柿隊長以下の戦死者の追悼碑
  • 戦犯受刑者の墓
135柱と彫ってある小型のコンクリートの墓標は、チャンギ刑務所で処刑された戦犯の遺骨の一部を埋葬したもの、79柱は同じくクアラルンプールマラッカペナンで処刑された戦犯の遺骨の一部。
  • ひのもと地蔵
終戦後、ジュロンの集結所で死亡した日本人41名の慰霊のため、赤道会ジュロン会が醵金して建立したもの。

戦後[編集]

戦後しばらくは、日本人のシンガポール入国は禁止されていたため訪れる人もなく荒れるに任せていたが、1952年の日本総領事館再開後、館員と在留邦人が共同で清掃管理にあたり、二宮謙総領事を委員長とする「日本人共同墓地管理委員会」が設立され、同委員会を組織・運営していくための母体として1957年1月8日にシンガポール日本人会の前身「日本クラブ」が発足した[7]

戦後、シンガポールでは、墓地を接収して宅地開発が進められ、日本人墓地に対しても1974年に墓地使用禁止命令が伝達されたが、日本大使館とシンガポール日本人会がシンガポール政府と折衝した結果、墓地公園として保存することが許可された[8]

所在地[編集]

シンガポールセラングーンEnglish版の、アッパー・セラングーン路(Upper Serangoon Road)を左折してイオ・チュー・カン路(Yio Chu Kang Road)をしばらく行った右側にあるチュアン・ホウ・アベニュー(Chuan Hoe Avenue)に入り、墓地の標識から10メートルほど入った所に入口の門がある[9]

募金[編集]

2019年現在、シンガポール日本人会が日本人墓地公園への募金活動をしている[10]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • シンガポール日本人会 (2004) シンガポール日本人会史蹟史料部『戦前シンガポールの日本人社会-写真と記録 改訂版』シンガポール日本人会、JPNO 21162150
  • シンガポール日本人会 (1978) シンガポール日本人会「戦後の日本人の歩み ‐ シンガポール日本人会を中心に」『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』JPNO 79090009、pp.83-137
  • 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313

外部リンク[編集]

座標:1.3654873 N 103.8765215 E