エルサレム

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エルサレムまたはイェルサレムは、イスラエル東部にある都市。イスラエルは同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家は認めていない。

名称[編集]

ヘブライ語名の יְרוּשָׁלַיִםYerushaláyim, イェルシャラユィム、エル・シャーロム)は、しばしば「平和の町」を意味すると言われるが、これは語源を美しくしたいという思いが色濃く反映されたものである。そもそもエルとサレムの2つの要素であるかも明らかでなく、そうだとしてもエル(イェル?、ウル?)が何の意味の何語であるかは不明である。またサレムはシャロームやアラビア語のサラームなどと似ているが、だとするとヘブライ語でのシャライムの「イ」が説明できない。アラム・ヘブライ人がこの地に来た時に、現地の言葉による名称の発音を真似したものか、意訳したのかすらよく分からないが、少なくともヘブライ語ではない可能性が高い。

アラビア語名の القُدسal-Quds, アル=クッズ)は、「神聖」を意味する単語と共通の語根をもつものの、語形じたいはアラビア語では意味解釈できない。おそらくアラム語などからの借用と考えられる。「聖なる家」を意味する(بيت المقدس(Bayt al-Maqdis、バイトゥル=マクディス)と呼ぶ場合もある。イスラエル国内でのアラビア語の正式名はأورشليم القدس (Ūrshalīm al-Quds、ウールシャリームル=クッズ) である。ただし、「ウールシャリームル=クッズ(أورشليم القدس)」という呼称は、イスラエル政府による呼称に過ぎず、アラブ・パレスチナ側からみれば、エルサレムは通常アル=クッズ (القدس) と称する。イスラエルにおいてエルサレムを「ウールシャリームル=クッズ (أورشليم القدس) 」と称している背景として、エルサレムはヘブライ語ではイェルシャラユィム(יְרוּשָׁלַיִם)と称しているため、アラビア語でもヘブライ語のイェルシャラユィム (יְרוּשָׁלַיִם) と同様に「ウールシャリーム (أورشليم) 」としたいのではないかと思われる。

英語名は Jerusalem(ʤəˈruːsələm ジャルーサラム)。ラテン語ではヒエロソリマ。

概要[編集]

地中海から内陸部に入った標高800メートルの小高いの上に位置する。ユダヤ人が住む西エルサレムとアラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。

西部についてはエルサレム地区に位置する一方で、東部についてはパレスチナ自治政府も領有を主張し、エルサレム県に含まれるとともにパレスチナ独立後の首都と規定している。

古代イスラエルユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかつて存在した。また、イエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教キリスト教イスラム教共通の聖地となっている。

市内の地理[編集]

東エルサレム[編集]

詳細は 東エルサレム を参照

第一次中東戦争によってヨルダンの支配下に置かれた地区が東エルサレムである。1949年以前のエルサレム市域の20%を占めるが、本来のエルサレムである城壁に囲まれた旧市街は東エルサレムに含まれる。1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに占領され、東西エルサレムはひとつの市となった。占領後、イスラエルは旧ヨルダン領の28の地方自治体をエルサレムに統合し、エルサレムの面積は大幅に拡大した。この新市域にイスラエルは大型の入植地を次々と建設し、ユダヤ人を入植させている。

旧市街のすぐ東にはオリーブ山がある。ここはイエス・キリストの足跡が多く、多くのキリスト教徒が訪れるほか、旧約聖書ゼカリヤ書においても、最後の審判の日に神があらわれ死者がよみがえる場所とされているためユダヤ人の聖地ともなっている。

旧市街の北側には、ロックフェラー博物館や、中東における聖公会主教座聖堂である聖ジョージ大聖堂 (エルサレム)がある。旧市街の南側にはシオンの丘があり、ダビデ王の墓やキリストにかかわる旧跡がある。

旧市街[編集]

旧市街はユダヤ教イスラム教キリスト教聖地であり、嘆きの壁聖墳墓教会岩のドームといった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えない。旧市街は城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されている。北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア正教徒地区、南東はユダヤ人地区となっている。現在の城壁はオスマン・トルコスレイマン1世によって建設されたものである。城壁には北側中央にあるダマスクス門から時計回りに、ヘロデ門、獅子門、黄金門、糞門、シオン門、ヤッフォ門、新門の八つの門があり、ここからしか出入りができない。19世紀に作られた新門以外はスレイマン時代より存在する門である。

嘆きの壁はユダヤ人地区の東端にある。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、神殿の丘と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサー・モスクイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。岩のドームにはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべてのがここに集結してくるとされる「魂の井戸」がある(イスラム教ユダヤ教徒の伝統に従い、ユダヤ教最高の神殿跡をイスラム教寺院に改造できる根拠は、ムハンマドおよびイエス・キリストユダヤ教徒にも信頼されうる預言者であって、イスラムがユダヤ教の伝統と矛盾せずにかつユダヤ教を凌駕しているとの主張を示している要出典。ここにパレスチナ問題における宗教的側面での問題がある)。キリスト教徒地区には聖墳墓教会が、アルメニア正教徒地区には聖ヤコブ大聖堂がそれぞれ位置し、多くの巡礼客を集める。イスラム教徒地区である東端の獅子門からキリスト教徒地区の聖墳墓教会へと東西に伸びる道はイエス・キリストの最後の道行きの道とされ、ヴィア・ドロローサと呼ばれてキリスト教の巡礼者が多く訪れる。

旧市街がヨルダン領であった時代にはユダヤ人は旧市街より追放され、イスラエルからは限られた時期にアラブ人のみが入国することができた。このため、イスラエルのユダヤ人は嘆きの壁を訪れることができなかった。1967年にイスラエルが旧市街を占領したことによって、イスラエルのユダヤ人は再び聖地を訪れることが可能となった。一方、イスラエルにはアラブ人のイスラム教徒が一定数存在していたため、イスラエル統治下ではイスラム教徒が聖地を訪れることは可能となった。しかし、現在でもイスラエルと国交のないアラブ国家は多く、そういった国の国民であるイスラム教徒はイスラエルに入国できないためエルサレムにも行くことはできない。

旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年世界遺産に登録された(ヨルダンによる申請)。

西エルサレム[編集]

西側は新市街と呼ばれる近代的な都市で、1949年以前のエルサレム市域の80%を占める。1949年にイスラエルが独立すると同時にテルアビブより首都が移され、ヘブライ大学イスラエル博物館、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、イスラエル政治文化の中心となった。ただし、国防省に関しては、軍事的な観点で、エルサレムではなくテルアビブに立地している。メインストリートは旧市街のヤッフォ門から北西に伸びるヤッフォ通りで、市庁舎や市場、西端には中央バスターミナルがあり、ライトレールも走っている。途中のシオン広場から西へ延びるベン・イェフダ通りは繁華街となっている。西エルサレムの北東にあるメーアー・シェアーリームはユダヤ教超正統派の町として知られ、東欧やロシアから移住して来た当時のたたずまいを残す町並みとなっている[1]。エルサレムの西端には国立共同墓地であるヘルツルの丘があり、テオドール・ヘルツルレヴィ・エシュコルゴルダ・メイアイツハク・ラビンなどが埋葬されている。この丘の西側にはホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェムが立っている。

歴史[編集]

詳細は [[エルサレムの歴史]] を参照

初期[編集]

紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていた土地において古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。その後、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)が建設されたが、その死後の紀元前930年ごろに王国は南北に分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。

その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は紀元前597年新バビロニア王国の支配下に入り、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムの住民約3000人がバビロンへと連行された。ついで紀元前586年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。バビロン捕囚である。

再建と再破壊[編集]

紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王キュロス2世はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。紀元前515年にエルサレム神殿も再建(第二神殿)された。その後はアレクサンドロス帝国セレウコス朝シリアなどの支配を受け、紀元前140年ごろにはユダヤ人がハスモン朝を建てて自立したものの、ローマ帝国の影響が強まり、紀元前37年にはローマの宗主権のもと、ヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。

この後は6年ユダヤ属州が創設され、州都はカイサリアに置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。このころ、イエス・キリストがエルサレムに現れ、30年ごろに属州総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されたとされる。

しかし、66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、エルサレム攻囲戦 (70年) によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。ハドリアヌスの治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿のあとにユピテルの神殿を築き、都市名をアエリア・カピトリナと改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年にバル・コクバの乱を起こしたが鎮圧され、エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。 その結果、エルサレムを追われ、離散(ディアスポラ)することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、律法の学習を拠り所とするようになった。

キリスト教とイスラム教の聖地化[編集]

313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことでエルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。

638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派セルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。

十字軍[編集]

1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には第一次十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した(エルサレム攻囲戦)。そして、1099年エルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝スルタンサラーフッディーンがエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。しかし、1239年にはアッバース朝の第34代カリフナースィルによってエルサレムが奪回されたため、その統治は短期的なものに終わった。

それ以後はマムルーク朝オスマン朝の支配下に置かれた。

シオニズム[編集]

19世紀後半にはいるとヨーロッパシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。1892年には海岸部より鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地方は国際連盟によってイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。

イスラエル建国[編集]

第二次世界大戦後の1947年に国際連合パレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを永久信託統治とする案を決議した際に、この決議を元にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在イスラエル実効支配にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年5月12日が「エルサレムの日」であった)。

イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植[2]を精力的に進めており、2010年現在で入植者は20万人を超える。さらに、二大政党である民主党共和党が綱領でイスラエルの首都と認めるアメリカ合衆国バイデン副大統領がパレスチナ・イスラエル問題でイスラエルを訪問中の2010年3月9日、新たに1600戸の入植を発表したことに反発し、クリントン米国務長官は「(米国にとって)侮辱的だ」と異例の厳しい表現で批判した[3]。イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している[4]。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している[5]

宗教とエルサレム[編集]

エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、アブラハムの宗教全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。

  • ユダヤ教にとっては、エルサレムはその信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた聖地であり、ユダ王国の首都であった場所でもある。現在でも幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも嘆きの壁は有名で、これは70年ローマ帝国がエルサレム神殿を破壊したときに外壁の一部が残されたものである。
  • キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが教えを述べ、そして処刑され、埋葬され、復活したとされる場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ教会が建っている。ゼカリヤ書12章では「地のすべての国々はエルサレムに集まって来る」とある。
  • イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。コーランは、メディナに居住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期にはすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスクが建設され、聖なる場所と見なされている。しかし、エルサレムは、メッカ及びメディナと同格の聖地ではない。なぜならメッカとメディナは、「禁域」とされ、異教徒の立ち入りや、樹木の伐採や狩猟などが禁止されているからである。一方、エルサレムは、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とならなかった。第2代のカリフであるウマルの時代に征服されたのちも、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市であり続けたのである。

人口[編集]

エルサレムは19世紀後半よりユダヤ人のほうがアラブ人よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都はアンマンに置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。[6]

また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教超正統派の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。

首都問題[編集]

エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではなく、そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうちエルサレムを首都としてきた国はほとんどない。古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。

しかし大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題もにわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは1950年に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、1980年には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとした。

1980年に国連総会は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。

今に至るまで、イスラエルはエルサレムが首都と宣言していながら、現在も多くの国は認めていない。

多くの外国の大使館、領事館はイスラエル建国初期に首都機能があったテルアビブに集中している。1967年までは13カ国の大使館がエルサレムに置かれていたが、ヨルダン川西岸やガザ地区の占領に抗議してこれらの国も大使館を移転し、2012年現在、エルサレムに置かれている大使館・領事館はひとつもない。

2009年EU議長国のスウェーデンは、エルサレムをイスラエル、パレスチナ自治政府、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。

地理[編集]

気候[編集]

エルサレムは地中海性気候に区分されており、冬に一定の降水があるが夏は日ざしが強く乾燥する。冬には一、二度の軽い降雪があるが、平均すると三、四年ごとにまとまったが降る。1月が一年で最も寒い月で、最も暑いのは7月と8月である。昼夜の寒暖差が大きいため、大抵は夏でさえ晩には涼しくなる。年平均降水量は590mm程度で、そのほとんどは10月から5月の間に降る。

経済[編集]

エルサレムはイスラエル最大の都市ではあるが、経済や産業の中心はテルアビブにあり、エルサレムの主な産業は政府関係や大学などの公的サービス、ならびに世界各地から訪れる観光客や巡礼客相手の観光産業であり、第三次産業が大きな割合を占める。エルサレムにはイスラエルの政府機能が置かれ、これがエルサレムの都市としての成長を促した。一方で、パレスチナ人やユダヤ教超正統派といったあまり豊かでないグループの割合が大きく、雇用も産業ではなく政府関係が主であることから、エルサレムの貧困率は高く、2004年にはエルサレムの人口がイスラエル全体の10.27%だったのに対し、エルサレムの貧困人口は全国の19.29%を占めた[7]

交通[編集]

テルアビブ・エルサレム間は高速道路で1時間、エゲッドバスが急行で1時間3本程度テルアビブの中央バスセンターから出ている。 エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはヤッファ通り西端にあるエルサレム中央バスセンターに発着し、そこからヨルダン川西岸を抜け、死海沿岸を通りゴラン高原方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通ってネゲブ方面へ南下するもの、テルアビブやハイファなど国内主要都市へ向けて走るものなど、国内全域に路線網がある。鉄道は、エルサレム・マルハ駅とロード、テルアビブを1時間強で結ぶ路線(テルアビブ=エルサレム線)がある。2011年12月1日にはエルサレム・ライトレールが、西のヘルツルの丘から中央バスステーション、ヤッファ通りを抜け、旧市街北西をかすめて東エルサレムへと向かう路線の営業を開始した。

観光[編集]

  • シロアムの池(キリストが奇跡を起こした池)
  • ギホンの泉
  • ヒゼキヤの水道
  • リベルテンの会堂(リベルテンのシナゴーグ)
  • ヒッポドローム(ヒッポドロームのオベリスク
  • フルダ門

教育[編集]

1925年に開校されたイスラエルの最高学府であるヘブライ大学を始めとする多くの大学があり、大学都市としての一面もある。ヘブライ大学のキャンパスは開校時はエルサレム東郊(現東エルサレム)のスコーパス山にあったが、第一次中東戦争によってこのキャンパスは飛び地となった[8]ため、西エルサレムのギブアット・ラムに新キャンパスを建設した。第三次中東戦争によって飛び地状態が解消するとスコーパスキャンパスが復旧され、現在では人文系のスコーパスキャンパスと自然科学系のギブアット・ラムキャンパスの2つのキャンパスがある。他にも、ベツァルエル美術デザイン学院やエルサレム工科大学などといった単科大学が存在している。

スポーツ[編集]

サッカーのイスラエル・プレミアリーグの有力チームのひとつであるベイタル・エルサレムFCが、西エルサレム南西部のテディ・スタジアムを本拠地としている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 「イスラエル」p4-5 臼杵陽 岩波書店 2009年4月21日第1刷
  2. イスラエルのネタニヤフ首相は「エルサレムは入植地ではない。我々の首都だ」との見解を示しており、入植地であること自体を認めていない。フランス通信社2010年3月23日 「エルサレムは入植地ではなく首都」、イスラエル首相が言明 * 2010年03月23日 13:56 発信地:ワシントンD.C./米国
  3. CNN 2010年3月13日 イスラエルの新入植地建設計画、米国務長官が「侮辱的」と非難
  4. 世界日報』2010年3月12日 森田陽子バイデン米副大統領、中東和平交渉の進展を促す
  5. イスラエル側は、パレスチナ人住居建設は当局の許可が必要と主張している。しかし実際に許可が下りることは少なく、「不法」を理由にパレスチナ人住居を破壊している。『しんぶん赤旗』 2010年7月15日東エルサレムのパレスチナ人住居 イスラエルが破壊 和平交渉 再開の動き覆す 国際社会が非難など
  6. 【図解】エルサレムの人口比率の変遷 AFP 2007年11月26日
  7. 「物語 エルサレムの歴史」p223 笈川博一 中央公論新社 2010年7月25日発行
  8. 「図説 聖地イェルサレム」p114 高橋正男 河出書房新社 2003年1月30日初版発行

外部リンク[編集]